なんとなく身動きのとれないコロナ禍の時期を利用し、かつて途中で放り出した本をもう一度読んでみようと考え、去年の夏以降始めている。もしかしたらコロナ禍より、人生が最後の局面に突入しているという圧力の方が強いかもしれない。
現在手にしているのは『苦海浄土』。改めて開いてみるとかつて半分もいかない第3章で放り出していた。この本を手にしたのは1977年の冬だ。この時、私たちは三里塚で要塞の建設の最中で、毎週土曜・日曜日には多くの青年・学生共闘の仲間が三里塚現地に援農に入っていた。
そんな時、援農を終えて三里塚から成田に戻るバスの中で、学生が私に次のように話しかけてきた。「先日、大学3年生の兄が大学を休学し、水俣現地に常駐する。今や時代は東の三里塚、西の水俣が天王山だ。お前も毎週三里塚に出掛けるくらいなら三里塚に常駐し、(人生)を賭けてみるのもいいものでは。兄が水俣で、弟が三里塚では困るのは親だけだろう」。「どう考えればいいか悩んでいる」というのである。
私はすぐに返事することはできなかった。「西の天王山」と言われる水俣について、あまり詳しく理解していなかった。裁判闘争の焦点も、被害者(患者)たちの動向も知らず、唯一九州から三里塚の現闘に来た仲間が三里塚のコメと水俣の無農薬みかんを交換するパイプを持っているだけだった。
それで飛びついたのが『苦海浄土』で、著者の石牟礼道子は私にとって第1回大宅壮一賞の受賞を返上した「反骨のジャーナリスト」であり、『苦海浄土』はルポルタージュであり、患者を代弁して企業チッソを告発している本であった。その目論見は前述した通り見事に第3章で挫折したのだ。この挫折を今回手にした講談社文庫の新装版に掲載されている編集人である渡辺京二氏の解説が見事に言い当てている。「それは、著者にとってもこの本にとっても不幸なことであった。そういう社会的風潮や運動とたまたま時期的に合致したために、このすぐれた作品は粗忽な人びとから悲惨を描写したルポ……であるとか……告発の書であるとか……賞讃を受けるようになった」と。彼の指摘はすべて当時の私にあてはまる。まさに「粗忽な人」であった。
あれ以来、何冊かの本を読み、二度程「水俣フォーラム」にも参加し、九州新幹線が開通すると友人の車で八代から水俣までまわって見た(現地調査のつもりで)。
しかし今回再読してみても『苦海浄土』は重い。重さでは正月に読んだ柳美里の『JR上野駅』とどっこいだ。水俣も東北も戦後の復興のためにいかに犠牲にされたかを描いているのだから、「重さ」に違いがあるとすれば『JR上野駅』は、柳氏の知的ボキャブラリーが飛び跳ねているのに対し、渡辺氏が指摘するように『苦海浄土』は、「石牟礼氏が、作家として外からのぞきこんだ世界ではなく、彼女自身が生まれた時から属している世界」。ここには、むずかしい言葉はなく、読み手が立ち止まるのは訛りや放言だけである。だが彼女の描く情景が蓋のように上から押し付けるのである。彼の兄が水俣に常駐するというのはこの歴史の重さを背負う決意であったのだ。何も知らない当時の私はそれにこたえるすべはなかったのは明白。 (武)
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